7月9日(金)


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   ピピピピピッ……

目覚ましに起こされ、いつもの時間に目をさます。

(よし、行こう。)

制服に袖を通して家を出る。

待ち合わせの場所へMTBを走らせ、紗奈ちゃんの前で止める。

「おはよう。」

「おはようございます。」

挨拶を交わすと歩き始める。

「今日は曇ってるね。」

「そうですね。」

「降らないといいけど。」

「先輩。傘はもってないんですか?」

「うん。一応、折りたたみ式のレインコートは持ってるけど。」

昨日のカラオケの話などをしながら校門へと到着する。

教室に入り、男子連中と無駄話をかわす。

今日はなにごともなく一日が始まる。


…………………………

………………

……


昼休みになり、いつもの儀式が始まる。

「またも幸せ者の時間がやってきましたな。」

「昨日は幸せの再分配をさせましたが……あれでは足りませんな。」

「なにしろ奴は世界中の幸福を一手にしてますからな。」

「うらやましさを通り越して泣けてきますな。」

「くそ……結城の奴……今度こそ全額おごらせてやる。」

(そうそういつもおごらされてたまるもんか。)

おれは背中の視線を無視して廊下に出る。

紗奈ちゃんと合流して教室を探していると、前から不吉な顔がやってくる。

(あちゃ……天敵の登場だ……)

おれはそしらぬ顔で通り過ぎようとするが、相手が許してくれない。

「おい。結城。」

「はい。なんでしょう。」

「おれが誰かわかるよな。」

「はい。天敵と天敵。いわばコブラとマングースですね。」

「また、こいつは意味のわからんことを……」

「極めてわかりやすい例えだと思いますが。」

「まあいい……」

「また仕事ですか?」

「は?」

「いえ、今井さんが登場するとおれに仕事がつくことになってますから。法則的に。」

「本当にお前の言うことは意味不明だな。」

「ありがとうございます。」

「それで、この前の書架整理のことだけどな。」

(まずい。静流さんに手伝ってもらったことがばれたかな……)

「驚くほどよかったぞ。」

「へっ?」

「いやー、あんな見事に整理された書架は初めて見た。普通はどんなに頑張っても順番違いや棚違いが出るもんだけど、完璧だった。」

「そうですか。」

「お前に会ったら言おうと思ってたんだ。絶対に間に合わないと思ってたけど、感心したよ。」

(絶対間に合わないと思って言いつけたのか……やっぱり)

「ま、これからもこの調子で頼むな。」

「はあ。」

それだけ言うと、図書委員長こと今井健二は、肩をポンと叩いて行ってしまう。

「先輩、よかったですね。」

「ははは、そうだね。」

(まあ、これがいつまでも続くとは思えないけど。)

空いた教室を見つけると、2人で昼食を取る。


…………………………

………………

……


(さて、今日も放課後ですか……)

おれは、固くなった背筋をほぐすため大きく伸びをする。

「一夜。今日はどうすんだ?」

「あぁ?おれか?わりい、今日は帰るわ。」

「そうか。」

「姉貴にヤボ用を頼まれてな。」

「そりゃ……大変そうだな。」

「まあな。じゃ、行くわ。遅れるとうるさいしな。」

一夜はそう言うと、いかにも気だるげに去っていく。

(今日はどこに行くあてもないし……おれも帰るか。)

そう思い立ち上がると、熱心になにかをしているのぞみが目に入る。

(なにやってんだ?)

おれはのぞみに近づき声をかける。

「どうした?のぞみ。」

「あっ、結城。」

「なにやってんの?」

「プリントを重ねてるんだけど。」

確かにのぞみの机の上にはプリントの束が縦横交互に重ねられている。

「今日、クラスで回収した分なんだけど……量が思ったより多くて……うん、できた。」

のぞみは最後の束を重ねる。分厚い束は一抱えはありそうだ。

「これって、執行部の関係か?」

「うん。」

「じゃ、半分持つよ。」

「いいの。」

「だって、一人じゃ大変だろ?」

「なんとかなると思うけど。」

「やめとけって。誰かとぶつかったら大変だから。」

「ぶつからないわよ、そんなの。」

「おれがぶつかるの。そういうのは。じゃ、この辺から取っていいか?」

おれはそう言ってプリントの3分の2ほどを持ち上げる。

「サンキュ。結城。」

のぞみが残りを持ち、執行部への廊下を歩いて行く。

「でも、どういう風の吹き回しよ。結城が自分から手伝ってくれるなんて。」

「のぞみには世話になったしな。」

「そんなの……別に気にしなくていいのに。」

執行部につくとプリントを置き、のぞみと別れて廊下に出る。

「あっ。」

こちらへ向かってくる静流さんを見て、おれは思わず立ち止まる。

「遊馬くん、どうしたの?執行部になにか用なの?」

「あっ、違います。」

「じゃ、わたしに会いに来てくれたの?」

「その……のぞみがプリントを運ぶのを手伝ってたんです。」

「なんだ、つまんないの。」

「つまんないって……」

「ねぇ、遊馬くん。」

「はい。」

「今日は、これからどうするの?」

「帰るだけですけど。」

「じゃ、待っててくれない?一緒に帰りましょ。」

「静流さんも、もう帰るんですか?」

「一度音楽室に寄らないといけないけど、そんなに長くはかからないから。」

「それって……忙しいんじゃないんですか?」

「いいの。それに最近は全然会ってないし……わたしも寂しいんだけどな。」

「えっと……」

「ね、一緒に帰りましょ?」

「えー、はい。」

結局、はいと言っている俺がいる。

「じゃ、しばらく待っててくれる?30分くらいで終わると思うけど。」

「わかりました。山口先生と話すんですか?」

「うん。で、終わった後、どこに行けばいいかな?」

「えっと……じゃ、教室に戻ってます。」

「ん。わかった。また後でね。」

おれは再び教室へ戻る。まだ数人が残って熱心に話をしている。

(うーん。なにをしようかな……)

おれは考えた挙げ句に寝ることにする。きっかり30分後に携帯がなるようにすると、机に突っ伏して眠る。

電子音に起きてみると、まだ静流さんは来ていない。それから30分待ち、教室から人の姿が消えても、まだ静流さんは現れない。

(どうしたのかな……話が長引いているのかな……)

おれはなんとなく気になって音楽室に行ってみる。そこは、最上階の奥にあり、まったく人の気配がない。

(あれ?……誰もいないみたいだけど……入れ違いになったかな?)

そっと音楽室の扉を引いてみるが、鍵がかかっている。

(やっぱり入れ違いか……)

おれは急いで教室に戻るが、静流さんの姿はない。おれは静流さんの携帯に電話をかけるが応答はない。困ったおれはそのまましばらく待つが、人が現れる気配はない。

(……どうしたんだろ?静流さん……)

おれが悩んでいると、スピーカーから校内放送の合図が聞こえる。

「剣道部の風霧零さん。剣道部の風霧零さん。至急音楽室に来て下さい。繰り返します……」

「この声は……静流さん?!」

(静流さんが風霧を呼び出すなんて……それも音楽室に……さっきまで確かにいなかったのに……)

おれは悪い予感に襲われて走り出す。武道場の前で、ちょうど出てきたばかりの胴衣姿の風霧と遭遇する。

「ゆ、結城。」

風霧は突然現れたおれにびっくりしている。

「……風霧……」

息を切らしたおれは、少し呼吸を整える。

「風霧、今の放送。」

「ああ、呼び出されたから出向くところだが。」

「それがおかしいんだ。」

「おかしい?」

おれは風霧にこれまでのことを話す。

「……それは……変だな……」

考え込むように風霧が言う。

「だろ?嫌な予感がするんだけど……先生たちを呼んだ方がいいかな?」

「……いや。むしろこれは、わたしが行くべき問題だと思う。」

「風霧が?」

「うむ。以前、この学校には妖魔の気配がただよっていると言ったのを憶えているか?」

「うん。」

おれは妖魔という言葉にドキリとする。

「その場所の一つというのが音楽室なのだ。」

「そう……なのか?」

「うむ。非常にかすかなのでこれまで確信はなかったが……ずっと気にかかっていたのだ。」

「そうか……」

風霧は再び考え込んだ後、厳しい表情で顔を上げる。

「やはり、剣を持っていった方がいい。」

「……刀をか?」

「うむ。取り越し苦労かもしれないが……敵がいるかもしれない場所に丸腰で行くわけにもいくまい。」

「でも……」

おれは風霧を止めようとしてためらう。静流さんがいるはずの場所へ刀を持った風霧に行って欲しくない。でも、風霧の言う通りだったら……

(普通だったら妖魔なんて笑い事だろうけど……)

おれは実際にそれが存在することを知っている。正確に言うと、妖魔じゃなくて淫魔だけど。

風霧は黙りこんだおれを置いて道場に戻る。しばらくの後、刀を持って現れる。

「これを持っていてくれ。」

風霧は鍵をおれに渡す。

「なんだ?」

「道場の鍵だ。遅くなるかもしれないと言ったら木村が渡してくれた。」

「そうか。」

おれはそれをポケットに入れる。

「ではわたしは行く。結城は残ってくれ。」

「おれも行くよ。」

「いや、残ってくれ。もし、わたしが戻ってこなかったら、人を呼ぶ人間が必要だ。」

「そうか……そうだな。」

確かに、風霧の言うことには一理ある。

「じゃあ音楽室の前まで一緒に行くよ。」

2人で人気のない校内を抜けて行く。音楽室の前に着くと、風霧が低く鋭い口調で言う。

「結城はここで待っていてくれ。」

風霧は音楽室の扉をノックする。

「風霧です。」

「入りなさい。」

中から声がする。

(おかしいな……さっきまで誰もいなかったのに……)

風霧は、扉を引くと、開けたまま部屋に入る。奥の方へ歩いて行き、すぐに姿が見えなくなる。

中から山口先生らしい人物との会話が漏れてくるが、別におかしなところはない。

(……静流さん……どこに行ったんだろ……えっ?)

おれは背後に異様な気配を感じておそるおそる振り返る。

(そんな……)

おれは目の前の光景が信じられずにまばたきを繰り返す。

(静流さん……)

そこには淫魔の姿をした静流さんが立っていた。


…………………………

………………

……


(静流さん!)

おれは声を出そうとするが、口が動かない。

(これは……最初に保健室で見つかった時と同じだ……でも、なんで……)

おれは、必死に静流さんの目を見つめる。しかし、そこに意志の力は感じられない。

(まさか……)

静流さんがうながすと、おれの体は意に反して音楽室の中に向かう。

後ろで扉が閉まり、鍵を閉める音が聞こえる。

その音に気が付いた風霧が振り向く。淫魔の姿をした静流さんに一瞬驚きの表情を浮かべるが、次の瞬間にはぱっと飛びすさり、刀を抜く。

油断なく身構えた風霧がゆっくりと口を開く。

「これは……どういうことですか。山口先生。」

それを聞いた先生は、ふうと溜め息を漏らす。

「……これはこれは……とんだ邪魔が入ったものですね。」

首を振りながらつぶやく。

「こうなれば……仕方ありませんね。」

その言葉とともに山口先生の姿がぼやける。床に服が落ちる音とともに、そこに怪異な、人の形をしたモノが現れる。

漆黒の体に角を持ち、左右の背中に2つの瘤を背負ったその姿……

(風霧の言っていた妖魔って……こういうことか……)

「神無君、結城君をこちらに。」

山口先生の面影を残した顔が言葉を発すると、おれの体が動き出す。

刀を構える風霧の前を横切り、山口先生だった妖魔の前に立つ。

「では、そこに座ってもらいましょうか。」

おれの体が、教室の空いた机の前に座る。

「では、神無君。風霧君を頼む。」

そう言われた静流さんがじりじりと風霧との距離を詰める。

(だめだ静流さん!やめるんだ!)

おれは心の中で叫ぶ。

(やめてくれ、静流さん……おれは2人が戦うところなんて見たくない……だめだ、だめだ、だめだ……)

「だめだっ!静流さん!」

えっ?声が出た。

しかし、静流さんはこちらを見ることもなく、風霧に襲いかかろうとしている。

「ほう。もう動けるのですか。」

そう言うと、妖魔は一本の棒を手にする。その端を引っ張ると、棒が分離し、中からギラリとした刃が姿を見せる。

「しかし、お静かに願いましょうか。」

その刃がおれに突きつけられる。

「結城君、携帯をお持ちでしょう。出して頂けませんか。」

おれは動かない。

「わたしとしては、人を傷つけたくないのですがね。」

おれは、しぶしぶポケットに手を入れる。

「ゆっくりお願いしますよ。机の端に置いて下さい。」

おれが言われた通りにすると、妖魔はそれを慎重に持ち去り、おれの手の届かない場所に置く。

「しばらく見物していてもらいましょうか。」

その言葉に静流さんと風霧に目を戻すと、2人の距離が縮まり、まさに戦いが始まろうとしていた。

それまで様子をうかがっていた静流さんが、素早く飛びかかり長い爪を風霧の頭上に振り下ろす。風霧は刀でそれを受けると、横になぎ払う。後ろに飛んだ静流さんを風霧の突きが襲う。体を捻ってそれを避けた静流さんは再び爪を繰り出す。

(ああ、本当に始まった……)

切り合う静流さんと風霧。おれが一番見たくなかった光景が目の前にある。

(どうにかしなきゃ……)

どうにかといっても、横には剣を持った妖魔が立っている。

(……紗奈ちゃんがいれば……)

この2人を止められるのは、淫魔になった紗奈ちゃん以外に考えられない。

(でも、もうバイトに行ってるはずだしな……くそっ、どうしたら……)

おれは必死で考えをめぐらせる。

(そうだ、一夜だ。あいつなら変な能力があるから、呼べば届くかもしれない。)

そう思い当たると、必死に念じ始める。

(一夜一夜一夜一夜一夜一夜一夜一夜一夜一夜一夜一夜、一夜頼む一夜頼む一夜頼む……)

そう念じながらも、目は2人の動きを追い続ける。

どうやら風霧が優勢で、静流さんは体の数箇所に傷を負っている。

(ああ、静流さんが傷ついていく……)

なにもできない自分に腹が立つ。

「なぜなの?こんなに強いはずがないのに……」

静流さんの声が聞こえる。

それに対して、風霧は無言で静流さんを追い詰めていく。静流さんの背中が壁につくと、風霧の動きも止まる。まるで、とどめをさす機会をうかがっているみたいだ。

(とどめって……)

おれの焦りが頂点に達したその時、静流さんの目が怪しくひかり始める。

(あれは……おれが動けなくなる時の……)

その目を見た風霧の体勢が崩れかける。

「くっ、あやかしか……」

風霧はそうつぶやくと、意志の力を奮い起こすように静流さんの目を見返す。

「どうして……わたしが操れないなんて……」

静流さんが信じられないといった表情で言う。

「わたしは……傀儡に操られるほど弱くはない。」

風霧は、そう言うと再び刀を静流さんの喉に向けて構える。

その言葉を聞いた静流さんは皮肉な笑みを口元に浮かべる。

「そう、でも、人を操るより、記憶を戻す方が簡単なのよ。」

それを聞いたおれはドキリとする。

(まさか静流さん……保健室のことを……)

「どういうことだ。」

「……こういうこと。」

静流さんの目がさっきとは違う光をたたえる。

それを見た風霧の顔が苦しげにゆがむ。

「くっ、き、貴様……」

「どう?思い出したかしら?」

静流さんがゆったりと微笑む。

「わたしはあなたの奥の奥まで知ってるってわけ。」

「いっ、言うな。」

風霧が刀を構え直す。

「あら、言っても言わなくても事実は変わらないわよ。それはあなたもわかってるでしょ?」

「くっ。」

下唇を噛み締めた風霧が打ちかかる。しかし、静流さんはそれをかるがると避ける。風霧の様子は明らかにそれまでとは違い、繰り出す剣は簡単にあしらわれ、逆に反撃を受けている。

(まずい。どう考えてもまずい。ここで風霧が負けたら全員操られて終わりだ……)ちらりと妖魔の方を見る。(ここはおれが妖魔をどうにかするしかないか……なにか武器になるものがあれば……)周囲を見渡すが、あるものといえば机に椅子、楽器に作曲家の肖像画しかない。

「なにかお探しかな。結城君。」

(ぎくっ)

「君の考えはわかる。しかし、やめておいた方がいい。わたしは人を傷つけるのを好まないのでね。」

(なんだってこの学校は人の考えを読む奴ばっかりなんだ?)

その間にも風霧は静流さんの攻撃を受ける。胴着は引き裂かれ、そこから血がにじんでいる。

「ふむ。神無君。もうそろそろいいだろう。風霧君の意識を奪ってくれたまえ。その後はわたしがやろう。」

妖魔がそう言ったちょうどその時。

ドン!

という音とともに音楽室のドアが揺れる。

「!?」

全員の動きが止まる。

ドン!

今度は教室を揺らすような音をたててドアが揺れる。

「な、何が……」

慌てる妖魔をよそに、次の一撃で扉が吹き飛ぶ。その向こうには淫魔の姿をした紗奈ちゃんが立っている。

「先輩!」

紗奈ちゃんが叫ぶ。

「えっ?お姉ちゃんに風霧先輩……」

傷だらけの2人を見た紗奈ちゃんが目を見開く。

「紗奈ちゃん。山口、じゃなかったこの妖魔が静流さんを操っているんだ。」

おれの声に紗奈ちゃんがゆっくりと振り向く。その目はぞっとするような金色に燃えている。

「奴が静流さんに暗示をかけたんだ。それを解かせないと。」

それを聞いた紗奈ちゃんが妖魔に歩み寄る。

「くっ、来るな。神無君。こいつを止めたまえ。」

動こうとする静流さんを風霧が刀で制する。

「紗奈ちゃん。おれも手伝うよ。」

走り寄るおれを、紗奈ちゃんは手で押さえる。

「大丈夫です。わたしに任せて下さい。」

その声には有無を言わせない力がこもっている。

「よくもお姉ちゃんを!」

一瞬紗奈ちゃんの姿が消えたと思うと、妖魔の手から剣が飛ぶ。

「許さないから!」

次の一撃で妖魔は壁に叩きつけられる。うずくまる妖魔に対して、さらに紗奈ちゃんの爪が襲いかかる。

「紗奈ちゃん!」

おれの声が聞こえないのか、攻撃の手を休めようとはしない。妖魔は腕といわず顔といわず、次々と傷を負っていく。

おれは紗奈ちゃんに後ろから抱きつく。

「紗奈ちゃん。ちょっと待って。まずは静流さんの暗示を解かないと。」

紗奈ちゃんの動きがやっと止まる。

「先輩……」

振り向いた2つの瞳は相変わらず金色に燃えている。(ああ、綺麗だ。)おれは、こんな状況にもかかわらず、そこに畏怖にも似た美しさを感じてしまう。

「わかりました。」

紗奈ちゃんは、そう言うと妖魔に向きなおる。

「今すぐおねえちゃんを自由にしなさい。さもないと……」

「わかった。わかったからもうやめてくれ。」

半泣きの妖魔が答える。

「神無君。そこの椅子に座りたまえ。」

弱々しく命令する妖魔の声に反応した静流さんが音楽室の隅にあるディスプレイの前に座る。

「あのパソコンを使う必要があるんだが……」

「ええ。いいわ。」

そう言いながら、紗奈ちゃんは妖魔の首に爪を当てる。

「でも、妙な真似をしたら……わかってるでしょうね?」

「もっ、もちろん。」

縮み上がった妖魔がキーボードを叩くと、ディスプレイに奇妙なパターンの模様が映し出される。静流さんの目が徐々に閉じていき、ぐったりと椅子に横たわる。そこに妖魔が近づき、しばらく額に手をあてる。

「これで解けたはずだ。」

妖魔が離れる。

「おねえちゃん!」

紗奈ちゃんが駆け寄り静流さんを抱きかかえる。

「おねえちゃん。大丈夫。」

体をそっとゆらすと、静流さんがゆっくりと頭を持ち上げる。

「んん……」

静流さんは薄くあけた目で辺りを見渡す。

「さな……あすまくん……どうして……」

「おねえちゃん、よかった……」

紗奈ちゃんが涙をこらえながら静流さんに抱きつく。

風霧はその間も油断なく妖魔を見張っている。

おれは、意識を取り戻した静流さんに簡単に起こったことを説明する。

「そう、話の途中で映像を見せるからと言われて、画面の前に座ったところまでは憶えてるんだけど……そういうことだったの。」

そう言う静流さんの目が怒りに燃えている。

「あの、静流さん……殺すとかは駄目だからね。」

静流さんは、おれの言葉を無視して妖魔の前に立つ。

「どうしよう。八つ裂きくらいじゃ足りないんだけどな……」

「や、やめてくれ。誰も傷つけるつもりはなかったんだ。」

静流さんの言葉に怯えた妖魔が言う。

「傷つけるつもりはなかった?わたしは殺されかけたんだけど。」

静流さんは体の傷を見る。

「そ、それは……まさか風霧君が刀を持ってくるとは思わなかったから……」

山口妖魔の話によると、風霧をおびきよせ、妖魔が風霧を油断させている隙に静流さんが意識を奪う計画だったようだ。

それが、風霧が刀を持っていたことに加えて、おれが来たことで計画が狂ったらしい。

おれは気になっていたことを口にする。

「大体、なんで静流さんと風霧を戦わせようとしたんですか?」

顔が山口先生なものだから、思わず敬語口調になってしまう。

「最初は、そんなつもりはなかったんだ、ただあまりにも執行部が音楽室を空けろとしつこいから……」

山口妖魔の説明によると、最初は静流さんに音楽室の件を忘れさせるためだけに催眠をかけたけど、気を失った静流さんが淫魔の姿になったことで、今回の計画を思いついたらしい。

「風霧君がわたしを疑っていることは前々から気がついていたんだ。だから、神無君の力を利用して意識を奪い。わたしのことを忘れさせようとしたんだ。」

「だからってこなことをしなくても。」

「……恐かったんだ。風霧君が。」

「恐かった?」

「そ、それはそうだ。風霧と言えば問答無用で妖魔を切るので有名だから……そもそも、わたしは、この学校に来たくなかったんだ。妖魔で、風霧の道場がある町内に近寄りたがる奴なんかいやしない。いるとしたら、そいつはよほどの物知らずか命知らずだ。」

(……てことは……静流さんの両親は?)

「物知らず。でしょうね……世間のことに興味ないから。」

そんな静流さんの言葉を無視して、山口妖魔はしゃべり続ける。

「でも、ここしか採用にならなかったから……来てみると風霧の娘がいて、疑いの目で見られて……毎日毎日生きた心地がしなかったんだ。だから……どうにかわたしのことを忘れさせたかったんだ……」

「それで、音楽室ではなにをしてたの?」

まだ怒りの収まらない静流さんが詰問する。

「……音楽を聞いていただけだ……」

静流さんが「はぁ?」という顔をする。

「ほ、本当だ……あのスピーカーのパネルを外してくれ。」

おれは指差されたスピーカーに近づき、前面のパネルに手をかける。軽く引っ張るとそれが外れ、中から真っ黒なスピーカーが顔をのぞかせる。

「それは……わたしが私費で購入して入れ替えたものなんだ。家にはそんなに大きなものは置けないから。」

メーカー名を見ると、誰でも知ってる高級ブランドのものだ。

「音楽室にあるスピーカーをすべて入れ替えて、完璧な音響にしたんだ。それで音楽を楽しむのがわたしの唯一の楽しみなんだ。」

(うちの音楽室の音響がやたらといいと思ったら、そういうことか。)

おれはあきれると共に、私費を投じてまで設備を整えた山口妖魔の執念に感心する。

「それは、学校の私物化でしょ。ますます許せないわね。」

執行部部長の顔になった静流さんが言う。

「それに、人を操って戦わせるような力を放っておくわけにもいかないし……どうしたものかしら。」

「い、いや、心配しなくていい。わたしにはそもそも力はない。」

「人を操っておいてそれはないでしょ?」

「だから、わたしは機械の力を使って人を催眠状態におかないとなにもできないんだ。それに、その他にはなんの能力もない。」

「そうかしら?」

「ほ、本当だ。わたしの一族は、怪力が本来の能力なんだ。ただ……わたしはそれを持たずに生まれてきたから……だから、本当に人と争うのは嫌いなんだ。」

そういえば、静流さんが劣勢の時も自分では戦わなかったし、おれにも剣を突きつけただけで、それ以上のことはしていない。

「さて、信じていいものかしら。」

静流さんは決めかねているようだ。

「……おそらく本当だ。その妖魔の言っていることは。」

それまで黙っていた風霧が口を開く。

「妖魔の姿になってもほとんど力のある気配を感じない。妖魔としてはずいぶん弱いのではないかと思う。」

「だから音楽教師をやってるんじゃないか……」

山口妖魔がつぶやく。

「そう……じゃあ、音楽室を独占すること、人を操る機械のことを忘れてもらえばいいかしら……」

静流さんはおれの顔を見る。

「それでいい?遊馬くん。」

「いいと思いますけど……」

(なんでおれに聞くんだろ?)

「だって、遊馬くんすぐ怒るんだもの。人の記憶を消したりすると。」

静流さんは山口妖魔に向き直る。静流さんの目があやしくひかり、妖魔はぐったりと床に横たわる。

「これで大丈夫だと思うけど……」

静流さんはそう言うと、あらためて周囲を見渡す。静流さんと風霧の目が合い、気まずい沈黙が流れる。

「あの……大丈夫?」

静流さんが最初に口をひらく。

「大丈夫です。」

風霧が答える。

「あの、ごめんなさいね。襲うつもりはなかったんだけど……」

「いえ。わたしも以前、神無先輩を切ろうとしたことがありますから。」

「えっ?……記憶が……戻ったの……」

「ええ……戦いの最中に……」

風霧はそう言うと、唇を強く噛みしめる。

教室を、前よりもいっそう重い沈黙が支配する。

誰も口をきかないまま、時が流れる。

「では、わたしは失礼する。」

風霧の言葉が沈黙を破り、刀をさやに収める音が響く。

「怪我の治療もありますので。」

立ち去ろうとする風霧を紗奈ちゃんが呼び止める。

「あの、風霧先輩……」

風霧が立ち止まる。

「あの、傷の治療ならわたしもできますけど……それに……おねえちゃんならもう一度記憶を消すことも……」

それを聞いた風霧の肩がピクリと揺れる。

「……いや、結構だ。自分の過ちは憶えておきたい。」

振り返りもせずにそう言うと、風霧は扉へと向かう。

「ちょっと、風霧。」

おれの呼びかけにも答えず、風霧は足早に音楽室を後にする。

(あんなボロボロの胴衣で校内を歩かなくても……って、鍵。)

おれは道場の鍵を預かっていることを思い出す。

「あの、紗奈ちゃん、静流さん。後を任せていいですか?」

「いいですけど……どうしたんですか?先輩。」

「おれが道場の鍵を持ってるんだ。」

おれはそう言うと、あわてて風霧の後を追う。廊下に出るともう風霧の姿はない。おれは急いで、人気のない校舎を駆け抜けると、道場の前でうつむいている風霧を見つける。

「風霧、鍵。」

風霧が受けとろうとしないので、おれが鍵を開ける。扉が開くと、風霧は無言で中に入り、女子用の部室に消えていく。

(……思い出したんだ……あのことを……)

心が鋭く痛む。

(おれは……どうしたら……)

考えがまとまらないままに待っていると、思ったよりも早く制服に着替えた風霧が出てくる。

「大丈夫か?」

風霧はうつむいたまま、足早に歩いていく。おれは急いで道場の鍵を閉めると後を追う。

「風霧、待ってくれよ。」

風霧はおれの声を無視して暗い校舎を抜けていく。

おれは、校門を出た風霧をさらに追いかける。

「なあ、話を聞いてくれ。」

それでも、風霧は足を止めようとはしない。

(どうしよう……)

しばらく、言葉もないまま歩いていると、風霧の右肩に赤いシミが見える。

(血……じゃないのか?)

なおも歩き続ける風霧の肩で、赤い模様が徐々に大きくなっていく。

「おい、風霧。血が出てるぞ。」

それでも風霧は耳をかそうとしない。

「なあ、本当に血が出てるんだって。」

「………………」

「どんどん出血してるし、止めたほうがいいって。」

「………………」

「風霧、聞いてんのか?」

「………………」

なにを言っても風霧は反応しない。おれは、ついに我慢の限界に達して、風霧の左手をつかむ。

「いい加減にしろよ!」

思わず怒鳴ったおれの声に、風霧の体がビクッとふるえる。

「なあ、風霧……」

そう言いながら、うつむく風霧の顔をのぞき込む。

一筋の涙が頬を濡らしている。

「あっ………………ごめん。」

おれは怒鳴ったことを後悔する。

「あの、ずっと肩から血が出てるからさ、止めた方がいいと思って……」

「よかったらうちに来ないか?その方が近いし、かーさんも手伝ってくれると思うし……」

風霧が小さくうなずく。

おれは、離すといなくなりそうな気がして、手を引いたまましゃくりあげる風霧を連れて家へと歩いて行く。

風霧の手が妙に小さく感じる。

家に着くと、電気が消えている。

(かーさん、またどっか行ったのかな……こんな時に……)

玄関の鍵をあけるとスイッチを入れる。明かりのともった廊下を通って、風霧をリビングに案内する。

部屋の明かりをつけると、テーブルに手紙が乗っている。

手紙の上には千円札が置いてあり、”友達と夕食に出かけるので、これでご飯を食べてね”と書いてある。

(頼むよ、かーさん……)

「あの、かーさんは出かけてるみたい。」

おれは風霧に言う。

「……救急箱を貸してくれ……」

おれはあわてて棚の上から救急箱を降ろす。

「これでいい?」

「……1人になれる場所はないか……」

「あっ、そりゃそうだよな。おれの部屋を使って。」

風霧を部屋に案内すると扉を閉じる。

(ふう。これからどうしよう。)

一息つくと、少し緊張がとけたのか、小腹がすいているのが感じられる。

(風霧もそうかな……でも、今は食べたい気分じゃないかもしれないし……でもいいか、あって困るわけじゃないし。)

おれは決心すると、走って3分のパン屋に駆け込む。カツサンドにミックスサンド、その他もろもろを買うと、急いで家に戻る。

それから30分ほど待つが、風霧は出てこない。

(ちょっと様子を見てこようかな……)

おれは、少し暖めたカフェオレと、買ってきたパンをお盆にのせて自分の部屋へ行く。

コンコン

「風霧、入ってもいいか?」

「ああ。」

部屋に入ると、机の上に置いた救急箱の前で、うつむいた風霧が正座している。

「あっ、これ、よかったら食べて。」

おれは救急箱をのけると、お盆を置く。

「……」

無言の風霧はコップを持つと、少しカフェオレを飲む。

「……すまないが、Tシャツを借りた……」

風霧の言葉に顔を上げると、椅子の背にかけていたTシャツが消えている。自分の部屋で、自分のTシャツを着ている風霧を見るのはすこし変な気分だ。

「うん。いいよ。ごめんな。先に言っておけばよかった。」

その後は、沈黙が続く。

(言うなら今だと思うけど……)

ちらりと風霧の方を見る。風霧はパンには手をつけずに、カフェオレを少しずつ飲んでいる。おれも、今では食欲のかけらもない。

(絢音さんはタイミングがあればって言ってたけど……)

この時を逃がしたらもうそれは訪れないかもしれない。

(風霧にどう謝っていいのかわからないけど……でも、言おう。)

おれは心を決めて口を開く。

「風霧……」

「……………………」

無言の風霧がこちらを向く。

「謝っても、許されることじゃないと思うけど。ごめん。」

風霧が苦しそうな表情に変わる。

「あの時、風霧は意識がなかったのに……」

「……………………」

「おれは風霧にあんなことをして……本当にごめん。」

おれは深く頭を下げる。

「……………………」

今までで、一番重苦しい沈黙が訪れる。

風霧はなにも言わず、おれも動かない。

永遠とも思える時間が過ぎた後、風霧がぽつりと言う。

「結城は……後悔しているのか?」

その声に風霧の方を見ると、うつむいて、悲しそうな顔をしている。

「うん……だから……心の隅では風霧の記憶が戻ることに怯えてたんだ……あのことを忘れててくれたらいいってずっと思ってた……」

その言葉を聞いた風霧は、おれのシャツのすそをぎゅっとつかむ。

「わたしは……忘れたくない……」

「……」

「わたしは……どんな形であれ……結城とのことを忘れたくない……」

そう言ってこちらを見上げる風霧の目には涙があふれている。

「風霧……」

「だから……だから、もう一度、記憶を消されたくはなかったんだ……」

それだけ言うと、風霧はそのまま声を上げて泣き始める。

それを見ているおれの胸に突き上げるような感情が込み上げてくきて、思わずその肩を抱く。

風霧はおれの胸に顔をつけたまま泣き続ける。

どのくらいそうしていたのかは、わからない。

少し泣き止んだ風霧が顔を上げ、目と目が合う。

そのまましばらく見つめ合っていると、2人の顔がどちらからともなく近づいていく。

風霧がそっと目を閉じる。

2つの唇が重なって、おれたちは………………


…………………………

………………

……


あの後、風霧はかーさんが戻る前に帰っていった。その前に、風霧は一つの質問をした。

(”神無部長の妹とつきあっているのか?”)

おれは、うんと答えた。すると、風霧は、はっきりとした声でこういった。

(”そうか、それでもわたしは結城のことが好きだ。”)

好きだ。風霧は確かにそう言った。

(おれはどうなんだろう。)

風霧のことは好きだと思う。その一方で紗奈ちゃんを好きな自分がいる。

(どっちが好きかといわれたら……)

答えが出ない。2つを比べようとしても比べられるものじゃないし、それぞれが好きだとしか言いようがない。

(おれって……単にものすごい浮気者なのかな……)

紗奈ちゃんに連絡しようと思うが、携帯に手が伸びない。

それに、電話で話すことじゃない。

(明日、会ってちゃんと話そう……)

その結果なにが起こるのか、予想もつかない。

(紗奈ちゃんを失ってしまうのかな……)

そう考えただけで居ても立ってもいられない気持ちになる。だからといって、風霧とのことを後悔する気持ちは湧いてこない。

(おれって……だめな奴だな……つくづく)

再び眠れない夜が訪れ、おれはベットの上でひたすら寝返りを繰り返した。


…………………………

………………

……




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