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今日はいつもより遅く目をさます。 10時の風霧との約束に間に合うように家を出ると、真夏に近い太陽の下を徒歩で駅に向かう。MTBで行ってもいいが撤去が恐い。 (しかし、なんで自転車が撤去の恐怖におびえなければいけないんだ……空気も汚さず燃料効率も最高の乗り物なのに……政府が十分な駐輪場を確保しないのが問題なんであって、”違法”駐輪を取り締まるなんて間違ってる。なんでもっと自転車の住み良い社会にしないんだ……そうすれば環境問題もエネルギー問題も良くなるのに……うん。おれもたまにはいいことを言う。) 駅に着くと改札の前で風霧が待っている。ぴったりとしたジーンズに真っ白な長袖のシャツを着て、いつものように髪を後ろでくくっている。 (そう言えば初めて見るな、風霧の私服。) 無駄のない組み合わせが風霧らしい。 「ど、どうした。な、なにかおかしいか?」 おれの視線に気づいた風霧が言う。 「あっ、そういうわけじゃないけど、待った?」 「い、いや、待ってはいない。」 「切符はどこまで買えばいい?」 改札を抜けると快速に1時間ほど乗り、鈍行に乗り換える。15分の後、今度はバスで30分近く山の方へと走っていく。 山の中腹でバスを降りると、濃い緑の中にまばらに民家が見える。 「ここからは足で登るがいいか?」 「うん。」 緑に囲まれた九十九折の道を上っていくと、ある地点から急に温度が下がる。 「すごいな、クーラーが入ってるみたいだ。」 「ああ、ここからは川が近い。その影響だ。」 しばらく歩くと、道の右側に川が流れているのが見える。道を奥に行けば行くほど木の密度が増し、傾斜がきつくなる。そして、傾斜が増すほどに少し前を行く風霧のお尻が目の高さに近づく。 (えっと……これはまずいな……) そう思いながらもそこから目が離せない。 (……風霧のお尻は足のつけねから切れ上がってるんだな……本当に無駄な肉がないや……) おれはテレビで見たオリンピック選手を思い出す。 (走り高跳びの選手とかがこんな感じだったよな……) そのお尻がピッタリとしたジーンズに包まれて、歩くたびにくびれる。 (いかん、これこそ目のやりばに困るというやつだ……) おれは心の平静を保つために周囲の景色に目を移す。 (うーん、この木はなんとかだ……とか言えたらいいのにな、木の種類なんてからっきしわからないし……生えてる草もなにがなんだかさっぱり……) 「おわっ!」 脇見をしていたおれは、なにかにつまずいて転倒する。 「大丈夫か?結城。」 風霧が手を差し伸べてくれる。 「うん。大丈夫。」 「ちゃんと前を見て歩かないと危ないぞ。」 「おれもそうしたいのは山々なんだけどね……」 おれは曖昧に答えると、風霧の手につかまって立ち上がる。おれの手が触れた瞬間、風霧のほほが赤くなったような気がするが、すぐに前を向いてしまったのでよくわからない。 「もうすぐだ。」 風霧はそう言うと、二股になった道を左に折れる。しばらく行くと不思議な場所に出る。 「へぇ。」 おれは思わず声を上げる。普通の森といえば普通の森だが、木と木の間が少し広くなっている。下には、地表に顔を出した木の根が縦横無尽に走り、見慣れない波のような模様をつくっている。その上には苔がむし、こもれびが柔らかく差し込んでいる。 「これは……すごいな……」 おれは立ち尽くしたまま、しばらくその風景を眺める。 「ここは、この山でも神域とされているところだ。」 風霧の視線を追うと、その先には小さな祠が祭られている。 「神域って……入っていいのか?」 「ああ、大丈夫だ。立ち入りは禁止されていない。昔からこの山は剣の修行者が多くこもったところで、その守護神でもある。」 「ふーん。」 「ちょっと待っていてくれるか?」 そう言うと風霧は祠の前に行き、手を合わせた後、戻ってくる。 「ここを抜けると、森が切れる場所がある。そこでお昼にしよう。」 「わかった。」 数分歩くと、風霧の言葉通りに森が切れて少し平らになった場所に着く。おれたちはまばらに生えた木のうち一本を選んでその根本にシートをひく。 座って一息つくと、どこからともなく水の流れる音が聞こえてくる。川は見えないけれど、下のほうが谷になっていてそこを流れているみたいだ。 耳を澄ますと、その谷を渡る風の音、木の葉がすれる音、かすかな鳥の声が聞こえる。 「ああ、こういうことか。」 「ん?」 「いや、風霧が言ってた意味がわかったよ。本当に色々な音が聞こえるんだな。」 「そうか聞こえるか。それはよかった。」 風霧は嬉しそうに言うと、弁当箱を取り出す。おれはそれを受け取りながら、人から食料をもらうという自分の運命に思いを馳せる。 (今日もまたもらってしまった……) 「どうした?結城。」 「いや、なんでもない。ありがたくいただくよ。」 「口に合えばいいのだが……」 食べてみると、見た目は派手ではないがしっかりとした味がする。 「うん。おいしい。」 「よかった……」 「すごくダシの味がしっかりしてておいしいよ。」 「それはよかった。」 「おにぎりも抜群にうまいし……なんで、普通のおにぎりよりうまいんだ?」 「それは……多分塩が違うのだと思う。」 「塩が?」 「ああ、うちの父は塩と酒と油はよいものを使え、というのが口癖でな。それで、塩が普通よりもいいのだと思う。」 「そうか。」 「うむ。父は普段あまり気にしないクセに、妙な所にこだわるのだ。」 「ふーん。」 「ダシも鰹節を削ってとらないと怒り出すしな。」 「鰹節は削ってあるもんだろ?」 「そうではない。鰹節の塊を見たことはあるか?」 「パックに入ってるのしかないけど。」 「鰹節というのは、角張った棍棒のような形をしていて固いのだ。それをカンナのような道具で削って使うのだが、父はそれを手でやらないと機嫌が悪いのだ。」 「へー……」 「そのクセに足袋が左右違っていても気にしないのだから……こだわりの基準がよくわからない。」 「面白いな……恐そうなイメージなのに。」 「剣に関してはそうだが、その他のことに関してはそうでもない。」 「ふーん。それで、やっぱり練習は厳しいのか?」 「うむ。そうだな……たとえば居合いなら、少しでも剣筋がぶれたら絶対に認めてはくれない。」 「そうなんだ……なあ、風霧は刀を抜く前になにを考えているんだ?」 「考えるとはどういうことだ?」 「その、武道場の横で立っている時、刀を抜くまで、ずいぶん長い時間動かなかっただろ?」 「ああ。」 「その止まっている間になにを考えてるのかと思って。」 「ああ、そういうことか。なにも考えてはいない。見ているだけだ。」 「見るのか?」 「正確に言えば、自分の動きの結果を見ようとしている。」 おれは意味がわからず首をかしげる。 「あの時は、藁束の切れた状態を見ようとしていた。藁束の切り口が見えれば、刀の動くべき道筋が見える。剣筋が見えれば体がどう動けばいいのかわかる。言うなれば、ものごとを逆から見ようとしているようなものだ。」 おれはますます首をかしげる。 「さらに言えば、気の状態と体の状態が最も良い状態になるのも待っている。結果のイメージと、気と体、これらの状態は常に上下している。それらが最も高い状態で合わさった一瞬を捉えて剣を抜くのだ。」 「難しいんだな……」 「実を言うと、わたしはあまり居合いが得意ではない。まだこれというものが見えたことがないのだ。見るといっても、一所懸命に見てしまうと、動きが固くなる。見るともなしに見なければならないのだが、わたしはどうしても見過ぎてしまう。」 「ふーん。」 「父には、剣が真面目過ぎるせいだとよく言われる。」 「そうなんだ……でも、あれだな。風霧は本当に剣道が好きなんだな。」 「な、なぜそう思う?」 「いや。本当に熱心にしゃべるから。」 「そうか……」 風霧が視線をそらす。 「すまない。退屈だろう……」 「そんなことはないって。おれは面白いよ、風霧の話を聞くのは。」 「本当か?」 「うん。正直に言うと、話の内容が全部わかるわけじゃないけど、何かおれの知らないことがあるんだと思うから面白いよ。」 「そうか……わたしは剣以外にほとんど話題がないから、人と会話ができないことが多い……」 「そんなことないだろ。」 「クラスでもこうやって話すのは結城だけだ。」 「木村とは話すだろ?」 「それは、剣道部だからな。」 「のぞみとは?」 「委員長か……委員長とは他の女子よりは話しやすい。」 「ほら。」 「委員長は誰とでも気がねなくしゃべるから……」 「まあ、しゃべるだけならいいけど。あいつは手も足も出るからな。」 「ふふ、そうだな。」 風霧が少し笑う。 「一夜はよく持ってると思うよ。おれだったら10回は入院してるって。」 「知り合って長いのか?黄泉塚とは。」 「長いといえば長いし、短いと言えば短いかな。入学してからの付き合いだから。1年ちょっとだよ。」 「そうか。2人は本当に仲がいいな。」 「おれと一夜が?」 風霧がうなずく。 「仲がいいと言うか、腐れ縁と言うか、なんと言うか……」 「そういうのはうらやましいと思う。わたしは人との距離を感じることが多いから。」 「人との距離か……」 おれがそう言ったところで会話が途切れる。ふと目を上げると、真っ青な空に綿をちぎったような雲が浮かんでいる。 「風霧の場合は距離を置かれているというより、一目置かれてるだけだと思うけどな。」 おれは再び口を開く。 「どういうことだ?」 「一目置くというか、風霧に憧れる奴も多いし。」 「憧れるか……そんなはずはない。」 「どうしてだ?」 「わたしは、三無しと呼ばれているから……」 そう言えば、風霧は無愛想、無言、無表情の三無しって呼ばれてたっけ。 「そう言えばそうだな。忘れてた。」 「忘れてた?」 「うん。無愛想に見えて人のことを気にしてくれるし、無言だと思ってたらけっこうしゃべるし、無表情だと思ってたら、誰よりも表情の変化の激しい奴だったし……三無しなんてアダ名はすっかり忘れてた。」 風霧があきれた表情になる。 「うん。風霧は無愛想だとは思われてるけど、だからといって風霧を尊大だと思ったり嫌いだと思ってる奴はいないと思うぞ。」 「そうなのか?わたしはそうだとばかり思っていた。」 「風霧は普段から人のことをちゃんと考えてるだろ、剣道部では後輩たちに色々教えてるらしいし、のぞみが仕事を頼めばちゃんとやるし。」 「それは仕事だからな。」 「剣道部は仕事じゃないだろ?」 「それは剣道部にいる以上、義務のようなものだ。」 「たとえそうだとしても、それをちゃんとやるのはたいしたもんだって。」 「いや。当たり前のことだ。」 「違うよ。おれなんか真面目にやっても、なぜかちゃんとできないし。それを当たり前のようにできるのがすごいんだって。風霧のそういうところが伝わるから、みんな風霧に一目置いてるんだって。」 「とても信じられないが……」 「そういえば、剣道部に新入部員が入ったのも自分の全国優勝とは関係ない、みたいなことを言ってただろ?」 「ああ。」 「そんなことない、って言うか、あるはずないだろ。あいつらは絶対風霧に憧れてるし、剣道部に入ったのもそれが大きいって。」 「そうなのか?」 「あいつらの風霧に対する態度を見ればすぐにわかるよ。なんて言うかな……風霧は出来ないことばっかり考え過ぎだって。もっと出来ることを考えた方がいいと思うよ。」 「出来ることか……」 「うん。おれは風霧は今のままで十分いいと思う。」 おれはそこまで言って、ちょっと気恥ずかしくなり口を閉じる。風霧もちょっと下を向いたまま黙り込む。山の斜面を降りる風が風霧の髪をやさしく揺らしている。 「ありがとう。」 「ん?」 「い、いや。感謝する。そういう風に言ってくれた人はいなかったから……」 「そ、そうか?」 その後、なんとなくうちとけたおれと風霧は、色々な話をした。子供の頃の思い出や、大事だったもの、友達の話や学校のこと…… 気がつけば日が少し傾いていた。 「そろそろ戻らねば暗くなるな……」 風霧が空を見上げながら言う。 「そうだね。」 「行こうか。」 おれたちは後片付けを始める。荷物をまとめ、来た道を戻ろうとして風霧がふと立ち止まる。その視線の先には一輪の紫色の花が咲いている。 「綺麗だな。」 おれは声をかける。 「ああ。」 風霧はその花に強く引きつけられたように見つめている。 「取ってこようか?」 「あっ。それはいい。わたしは野の花が好きだから。」 「そうか。」 「摘まれた花は……少し悲しく感じる。」 風霧は、なおもしばらく花を見つめた後、歩き出す。おれは風霧について行きながら、森に入る前にもう一度振り返る。その花は、まだ明るい太陽に照らされて、しっかりと咲いていた。 ………………………… ……………… …… 駅で風霧と別れたおれは、家に帰りベットに倒れこむ。 山から帰る途中から、おれの心の中では、一つの、つらい思いが大きくなっていた。 (風霧はあのことを憶えてないんだよな……) おれと紗奈ちゃん、静流さんが保健室にいた時、淫魔を切るためにのりこんできた風霧。おれはそれを止めたようとした。2人の身を守ったものの、意味もなく切らそうになった静流さんは逆上し、報復のために風霧を催眠状態において襲った。 (その時おれは……風霧とやってしまったんだ……) 今日の今日まで、あれは問答無用で2人を切ろうとした風霧のせいだと思ってきた。思い込もうとしてきた。 (でも……風霧は初めてだったんだよな……) 静流さんに記憶を消された風霧はそのことを憶えていない。 (風霧は……本当にそこまでのことをしたんだろうか……) 答えはわかっている。静流さんが風霧を襲ったのは無理のないことかもしれない。でも、おれがやったことは許されることじゃない。 (おれはただ……あの場の雰囲気に流されたんだ……) 絡み合う3人の肉体。その光景に興奮したおれは、風霧を…… 今日までは、そのことを気にしないようにしてきた。でも、風霧のことを知り、風霧との距離が縮まるほどに、心が悲鳴をあげる。風霧の言葉も、笑顔も、信頼も、おれはそれを受け取ることができない。 (風霧……すまない……) 後悔の念が押し寄せ、胸が締め付けられる。 (明日からどうしよう……) 教室に行けば風霧がいる。こんな気持ちを抱えたまま、今までのように接することができるわけがない。 この夜、おれはほとんど一睡もできずに朝を迎えた。 |
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