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放課後がやってきて、教室中がざわめく。 「あーあ。終わった終わった。」 「帰るベ帰るベ。」 「おい、一夜。」 「あん?」 「終わったぞ。」 それを聞いた一夜がのそりと起き上がる。 「ふう……」 こきこきと首をならす。 「で、遊馬。お前はどうするんだ?これから。またデートか?」 そう言った一夜の後ろから、風霧が近づいてくる。 「結城。」 「ん?」 「今日は来るのか?」 「ああ、行くよ。昨日約束したし。」 「そうか。よかった。」 ほっとしたように風霧が答える。 「おーうおうおう、3日坊主の遊馬くんが剣道2日目とは律儀なことで。」 「……だから2日目だろ。」 一夜の意味不明なつっこみをかわすと、別の声が聞こえる。 「へー。結城。剣道なんか始めたんだ。」 いつの間にか来ていたのぞみだ。 「これじゃ、こんどは槍が降ってもおかしくないね。」 「いーや。槍が降るというよりは、天変地異の前触れだろ。これは。」 「それもそうね。」 「だろ。たとえば百系が七百系になるとか。うごっ」 のぞみのミドルキックが一夜の横っ腹に炸裂する。 「のぞみがこだまになるとか。ぐえっ」 「キハ系が……ごわっ」 最後はほとんど何も言わないうちから一夜の体が宙に浮く。 それを見た風霧が、ちょっと驚いた顔で言う。 「その、なんだ……仲がいいのだな。委員長と黄泉塚は。」 「ちょっと。冗談はやめてくれる?誰がこんな奴と。」 「そうだ。もしそれが本当なら、それこそが最大の天変地……ぐふぅ」 浮いた。今度は本当に浮いた。確実にいつもの2倍は浮いている。 「うう……完全に刑法違反の域だぞ……これは……」 「だったら最初からなにも言わなきゃいいでしょ。」 「その……行こうか。結城。」 風霧とおれは、言い争うのぞみと一夜を残して教室を後にする。 「しかし、本当に仲がいいのだな。あの2人は。」 「ああ。いとこ同士だしな。」 「ちょっと、うらやましい気もする。」 「うらやましいか?あれが?」 「少しな。」 「ふーん。あっ、そういえば木村は?もういなかったみたいだけど。」 「ああ。木村はクラスが終わると真っ先に道場へ行くのだ。一年生を待たせるわけにはいかないといってな。」 「そうか。真面目なんだな。」 「うむ。後輩の面倒見もいいし。剣道部があるのは彼のおかげのようなものだ。」 「そうなのか?あいつは、風霧のおかげで新入生が入ったから剣道部があるようなことを言っていたけど。」 「それは違う。部員が増えたのは、木村が新入生を熱心に勧誘して回った結果だ。わたしのおかげではない。」 「そうか?でも、風霧が全国大会で優勝したことも貢献してるだろ。」 「だといいのだが……」 「いや。絶対関係あるって。」 そんな話をしながら道場へ向かう。 今日も軽い素振りから始まって、すり足、動きながら素振りが続く。今日は、新しく、下がる風霧の竹刀に向けて左右から切りつける練習が加わる。竹刀で打つ場合には、先端から20cmの範囲で打たなければならないらしいが、これがなかなかうまく当たらない。道場の端から端まで移動したら、相手の頭上にかかげられた竹刀に向けて面を放ち、背後に抜けることになっている。そして、この日8回目の面を放った時…… 「いてっ!」 おれは左手に痛みを感じて立ち止まる。手のひらを見ると、小指の付け根の部分がプクリと腫れ上がっている。 「どうした、結城?」 風霧が近づいてくる。 「いや、手が腫れてるんだけど。」 「見せてくれ。」 おれは風霧の前に手を出す。 「ああ、これか。これは、竹刀との摩擦で皮の層がはがれただけだ。」 「皮の層?」 「そうだ。皮膚というのは薄い層が重なってできている。竹刀を振っていると、その層と層がはがれて間に水のようなものが溜まる。いわゆる剣ダコの元のようなものだ。」 「で、どうしたらいいんだ?」 「うちの道場なら、それが破れるまで振りつづけろというところがだが……」 「ここではどうなんだ?」 「そこまではがれてしまったのなら、その部分を切り取ってしまった方がいい。一緒に来てくれ。」 おれは風霧に続いて部室に入る。風霧はおれを椅子に座らせると、救急箱から小さな医療用のはさみを取り出して消毒を始める。 「なあ風霧、それで切るのか。」 恐る恐る尋ねる。 「そうだ。」 「痛くないのか?」 「安心していい。皮膚に痛みを感じる神経は通っていない。肉を傷つけずに、はがれた部分だけを切り取れば痛みはない。」 そういうと風霧はおれの前に座る。 「手を出してくれ。」 おとなしく手を差し出すと、風霧は腫れた皮膚の周辺を手際よく切り取っていく。中から溢れた微妙に透明な液体を拭い、傷口を消毒すると傷テープを張ってくれる。 「これでいい。」 風霧の手が離れる。 「ありがとう。」 「いや、礼には及ばない。しかし、良いところがはがれたものだな。」 「どういうことだ?」 「普通は、最初に右手や左手の人差し指の下がはがれる。結城のように左手の小指の下がはがれるというのは竹刀をきちんと振れている証拠だ。」 「そうなのか?」 「ああ、自信を持っていい。」 「そうか……しかし、剣道も大変だな。結構痛いぞ、これって。」 「大丈夫だ。繰り返しはがれていくうちにその部分が丈夫になっていく。数ヶ月もすれば皮膚自体が強くなり、痛みもなくなる。」 「ふーん。じゃあ、風霧の手もそうなのか?」 「無論だ。」 「見せてもらっていいか?」 「……」 風霧は少しためらった後におずおずと手のひらを差し出す。小指の付け根の部分を見ると、確かにその部分の皮膚が他とは違っている。その場所に触れると、風霧の体がびくっと震える。 「あっ、ごめん。触ってもいい?」 「あっ、ああ。」 「へえ。本当に固いんだな。」 親指でその部分をなでると、なメシた皮のように強靭な手触りが返ってくる。 「ああ……」 風霧の声に顔を上げると、その頬がほんのりと赤くなっている……ような気がする。 「おっ、女らしくないだろう……固くて……」 おれの視線に気づいた風霧がつぶやく。 「そ、そんなことないって。」 「いや……わかっているんだ……わたしも、もっと柔らかな手に憧れることがある……」 「だからそんなことないって。こういう手は一番偉い手だって、ばあちゃんが言ってた。」 それを聞いた風霧はきょとんとした表情でこちらを見つめる。 「うちのばあちゃんが口癖みたいにいってたんだ。女の人の手で、固くなったり、あかぎれたりしているのは、自分以外の誰かのために一生懸命に働いてきた手だって。だから、一番偉い手だって。」 「自分以外の誰かのため、か……」 風霧がうつむく。 「あっ、ごめん。おれなんか変なこと言った?」 おわてて声をかける。 「……いや。そんなことはない。本当に面白い奴だな。結城は。」 顔を上げた風霧がおかしそうに笑う。 「そうか?」 「ああ。そんなフォローもなさそうなものだ。」 「そうかな。そんなに変だったか?」 それを聞いた風霧は、またおかしそうに笑う。 「では、戻るか。」 「そうだな。」 道場に戻り練習を続ける。今日は途中で抜けずに最後まで残り、最後の雑巾がけまでこなす。手を怪我しているからやらなくてもいいと言われたが、そんなわけにはいかない。部室で他の3人と無駄話をしながら着替えると、下級生の2人が先に道場を後にする。木村は道場の戸閉まりをもう一度確認する。 「お前が最後に出るのか?」 おれは木村に尋ねる。 「そうだ。おれが道場の鍵をかけて、職員室に持っていく。ところで結城。明日は来るのか?」 「ああそのことなんだけどな……」 と言いかけたところで、風霧も出て来たので、おれは2人に図書委員のことを話す。 「というわけで、明日もあさってもこれないんだ。」 「そうか……」 風霧が残念そうにつぶやく。 「しかし、なんでおれが図書委員なのか。いまだに意味がわからなんだけど。」 「どういうことだ?」 木村が尋ねる。 「いや。おれは図書委員に立候補した記憶もなければ、任命された記憶もないんだ。それなのに、図書委員として名簿に載っている。これは誰かの陰謀じゃないかと思うんだけど。」 それを聞いた2人が顔を見合わせる。 「その、だな、結城。お前が寝ていただけ、という可能性はないか?」 風霧が言う。 「寝てた?」 おれがそう聞き返すと、木村が後を続ける。 「そうさ。4月の最初に投票でクラス委員長を決めたろ?」 確かにそういうことがあった。 「その後で生徒だけで各委員を決めたけど、その時、結城はただひたすら寝てただろ?」 そういえば、委員長選挙でなんとなくのぞみに入れた後、開票が面倒くさくてそのまま寝てしまった、ような記憶がないこともない。 「じゃあその間に……」 「そうだな。確か男子の図書委員になりたい奴がいなくて、誰かが結城の名前を出したからそれですんなり決まったはずだ。」 「その誰かって……もしかして一夜じゃないか?」 「いや、黄泉塚じゃない。あいつも寝てたから。」 「そうか、この陰謀の黒幕はてっきりあいつだと思っていたのに……」 「まあ、そういうことで、お前が図書委員なのは間違いない事実だ。」 「そうか……そうは言っても、まだ納得いかないんだが。」 「じゃ、おれは職員室に行くから、また明日な。」 「ああ。」 木村が去り、風霧と2人で校門へと向かう。 (そうか、まさか欠席裁判が行われていたとは……これで謎は解けた、というより最初から謎なんかなかったわけか。しかし、誰だ?おれの名前をあげた不届きな奴は?そんなことをするのは一夜とのぞみくらいのものだけど……もしのぞみだったら、みんなが憶えてるはずだしな……) 「なにをぶつぶつ言っているのだ?」 「気にしないでくれ。おれは独り言が多いので有名だから。」 「そうなのか。」 「うん。そういうこと。じゃあ、おれは自転車だから。」 おれはそう言うと、風霧に手を振って自転車小屋へ向かう。MDをセットしてイヤホンをつけると、MTBに乗り校門へと向かう。驚いたことに風霧がおれを待っている。 「ごめん。今日はちょっと早く帰らないといけないんだ。」 おれは自転車を止める。 「もう遅いし。本当は送っていった方がいいんだろうけど……」 「それについては心配無用だ。いざとなれば刀もある。」 ……そりゃそうだ。 「しかし、結城。お前は音楽を聴きながら自転車に乗るのか?」 「そうだけど。」 「危なくはないのか?」 「そんなに危なくないとは思うけど……」 「そうか。ならいいのだが。」 「前にも同じようなことを言われたけどね。風霧はMDとか使わないのか?」 「ああ。耳をふさがれると周囲の気配を感じにくくなるからな。」 「気配、か。」 「それに、色々な音も聞こえなくなる。」 「色々な音って?」 「風の音や木の音、水の音といったような音だ。」 「そんなのが聞こえるのか?街の中で?」 「もちろん聞こえる。普段聞こえない音も、ふと耳をすませば聞こえるものだ。」 「ふーん……風霧も面白いことを言うんだな。」 「そ、そうか?わたしは田舎で育ったから、多少古いのかもしれないが……」 「田舎?」 「ああ。そこでは、様々な音が自然のままに聞こえる。」 「なんか良さそうなとこだな。」 「ああ、良いところだ。」 「おれはそういうとこに行ったことないから羨ましいよ。」 「そうなのか。」 「うん。いつか行ってみたいね。」 「そうか……」 「あっ、やべ。もう行かなきゃ。じゃあ、またな。」 「ゆ、結城。」 「ん?」 「い、いや。なんでもない……」 「じゃ。」 (風の音、か。) なんとなく風霧にいわれたことが気になってイヤホンを外してMTBを走らせる。耳をすませてみると、確かに風を切る音は聞こえる。 (うーん。風霧がいっていたのはこういうことなのか?なんか違うような気がするけど……) ……………………………… ……………… …… おれは今日もベットの上に寝転がって考える。 (しかし、今日も色々あったな……それにしても、剣道をやるはめになるとは思わなかった……あーあ。明日から図書委員か……そもそも図書当番やら書架整理ってのはなにをするんだ?全然想像もつかないんだけど……まあいいや。わからなかったらおれの責任じゃないし。でもそうすると成績がなあ……ひどい話だ……) おれは、憎き図書委員長に、無理矢理メガネをかける場面を想像しながら眠りについた。 |
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