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ぴんぽーん 6月も終わりに近づいたある日曜の夕方、なつかしい神無家のインターホンを鳴らす。 紗奈ちゃんと付き合い始めてから一ヶ月。神無家の両親が再び出張にでかけて、またしばらく姉妹二人の生活が続くらしい。 あれから一月もたったけど、おれは、いまだに紗奈ちゃんのことを紗奈ちゃんと呼び、紗奈ちゃんはおれのことを先輩と呼んでいる。 一度は、紗奈、遊馬さんの仲になったけど、その後なんとなくもとの呼び方に戻ってしまった。 (やっぱり”紗奈”って呼ぶのは照れるもんな……でもそう呼んだ方がいいのかな……まあ、そのうち、自然に呼び合える日が来るかな……) 「はーい。どちら様ですか?」 インターホンから声が聞こえる。静流さんだ。 「あっ。紗奈ちゃんはいますか?」 「あら、遊馬くん?」 「はい。」 「ちょっと待ってて。」 「あの、紗奈ちゃんは……」 おれの問いを無視して声が途絶える。 しばらくすると玄関の扉が開き、静流さんが顔をのぞかせる。 「こんにちは。遊馬くん。どうぞ、上がって。」 「はい。」 おれは静流さんに続いて玄関に入り、靴を脱ぐ。 「あの、紗奈ちゃんはいないんですか?」 「紗奈は、バイトの後、絢音さんに書類の整理を頼まれちゃって。今日はちょっと遅くなるんだって。」 こちらを見て笑う静流さんの目がいたずらっぽく光っている。 「そうなんですか。」 「だからちょっとリビングで待っててくれる?紅茶いれるから。」 「はっ、はい。」 思わず答えたおれだが、心に不安が押し寄せてくる。 あの目。なにか悪戯を思いついた子猫のように光る目。静流さんがあの目になった時は絶対になにかを企んでいる。 そして、この状況でその対象といえば……おれ、しかいない。 (いかん。落ち着け、落ち着くんだ。) おれは必死で自分に呼びかける。 (いいか。おれは紗奈ちゃんと付き合っているんだ。静流さんがなにを仕掛けて来た所で紗奈ちゃんを好きな気持ちで跳ね返すんだ。いいな、そうすればいくら静流さんだってなにもできないはずだ。) 「はい。どうぞ。」 静流さんの声とともに目の前にティーカップが置かれる。 「あっ。どうも。」 おれは、心を落ち着けるために紅茶を一口すする。 「ねぇ。遊馬くん。」 静流さんの問いかけに、カップに口をつけたままちらりと目線を上げる。 「ちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」 (来た!いいな。落ち着いて行くんだ。落ち着いて。) おれはカップを持ったまま首を縦に振る。 「わたしね。遊馬くんの飼い猫になることにしたの。」 「?」 なんのことか理解できずに見返すおれの視線を、静流さんが受け止める。 (???静流さんがおれの飼い猫になる???飼い猫ってことは、静流さんが猫で、おれが……飼い主?) 「ぶっ!」 驚きのあまり鼻に逆流した紅茶が粘膜を焼く。 「あちっ!」 と叫んだ口から残りの紅茶がこぼれる。そのまま、熱さとおどろきでむせ返っていると、静流さんがおれの横に座りハンカチで丁寧に拭いてくれる。 「大丈夫?遊馬くん。」 「あっ。すっ、すいません……じゃなくて静流さん!」 「なに?」 「さっきなんて……」 「えっ?だから、わたしは遊馬くんの飼い猫になることに決めたの。つまり、遊馬くんがご主人様で、わたしがペットってこと。」 「ごしゅ……ぺっと……って」 「どう?遊馬くんは、わたしみたいなペットがいたらいや?」 「い、いやもなにも。そいうことは……ぼ、僕には紗奈ちゃんもいますし。」 「ばかね。だからわたしは猫なんじゃない。遊馬くんは紗奈とつきあってて、わたしはその遊馬くんの飼い猫なの。これならなんの問題もないでしょ?彼女がいても猫を可愛がる人は沢山いるわけだし。」 「も、問題は大ありです。大体妹さんとつきあってるのに、お姉さんがペットだなんておかし過ぎます。」 「全然おかしくないわよ。わたしは、あくまでも遊馬くんの飼い猫で、紗奈に飼われているわけじゃないんだから。でも、そうね。どうせなら、いっそのこと遊馬くんのうちに引き取ってもらっちゃおうかしら。」 そう言うと、静流さんは、真っ直ぐにおれを見つめてくる。そのまなざしには、いままでのいたずらっぽさに加えて、なにかを懇願するような光が混じっている、ような気がする。 「えっ、でも、その。」 「わたしのこと、そんなにいや?」 そういうと、静流さんは軽く握った左手を猫の前足のようにおれの太腿にのせ、上目づかいに見上げてくる。 頭の中が、真っ白になる。 「ねぇ?どうなの?」 なにかを答えようとするけど、口をぱくぱくさせるだけで言葉が出てこない。 と、その時。 「ただいまー。あ、先輩。来てくれたんですね。」 玄関の靴を見た紗奈ちゃんの声とともに、リビングに向かって走ってくる足音が聞こえる。 (まっ、まずい。)と心が叫ぶ。 しかし、それに反して体は動かない。 カチャッ。 リビングの扉が開く。 「ごめんなさい、先輩。バイトが遅くなっ……・」 部屋に入りかけた紗奈ちゃんが凍りつく。 「おかえり。紗奈。」 そんな紗奈ちゃんに対して、何事もなかったかのように静流さんが声をかける。 「お、おかえりじゃなくて……おねえちゃん、なにしてるのよ。」 「なにって、遊馬くんが紅茶をこぼしたから拭いてあげてるだけよ。」 「じゃあ、なんで手が太腿の上にあるの!」 「あっ。これ?」 と言って静流さんが手を引っ込める。 「もう。おねえちゃんったらまたそうやって先輩を誘惑してたんでしょ!!!」 「誘惑なんてしてないわよ。」 「だったらそんなにくっつく必要はないでしょ!こんなの……いくらおねえちゃんでもひどいよ!」 「ねえ、紗奈。」 静流さんが、いつにも増して落ち着いた口調で話かける。 「な、なによ。」 「わたしね。今日から遊馬くんの飼い猫になることに決めたの。」 「えっ?」 「だから、遊馬くんがご主人様で、わたしはその飼い猫になることにしたの。」 「ちょ、ちょっと。おねえちゃん。なにをわけのわからないことを言ってるのよ。」 「あら、わけがわからないことはないわよ。遊馬くんはわたしのご主人様でしょ。だって、紗奈がそう呼ばせたんじゃない。」 「そ、それは。」 「だから、わたしはご主人様の飼い猫なの。人間だったら浮気だけど、飼い猫ならいくら可愛がられても浮気にならないでしょ。」 「そんなの……」 「ねっ。遊馬くんだってこんな可愛いペットができて嬉しいでしょ?」 静流さんがおれの腕にからみつき、ほほをすり寄せてくる。 「だめぇーーーーー。絶対だめ。そんなの絶対だめだからね。」 紗奈ちゃんが手を伸ばし、静流さんの顔をひきはがそうとする。しかし、静流さんは離れない。 「ぢょっと、、、ざな、、がおがゆがむ」 「だったら素直に離れるの!!!」 「ぜっだい、、ばなれない、、、から、、、」 紗奈ちゃんが引き離そうとすればするほど、静流さんも腕に力をこめる。そのまましばらくもみあいが続いた後、根負けした紗奈ちゃんが手を離し、おれの方を振り返る。 「ちょっと、先輩!先輩からもなにか言って下さい!」 「あーら、そんなこと言っても無駄よ。遊馬くんはわたしのことを可愛がりたくてしょうがないんだから。ねっ。ご、しゅ、じ、ん、さ、ま。」 「えーーーと。」 「ほーら。やっぱり遊馬くんは嫌がってないでしょ。」 「うーー。先輩。そうなんですか?」 「えーーーーーと。その、嫌がっていないというかなんというか。」 「ねっ。」 「じゃあ、やっぱりお姉ちゃんのことが好きなんですか!」 「い、いや、好きなのは紗奈ちゃんだよ。うん。」 「そうそう。遊馬くんが好きなのは紗奈。紗奈は、遊馬くんの彼女なんだから、飼い猫に変な嫉妬はしないの。」 「だから、おねぇちゃんは飼い猫じゃないでしょ!」 「だってぇ。遊馬くんのことをご主人様って呼んじゃったんだもん。しょうがないじゃない。」 「だからぁ。それを言うのは卑怯だよー。」 「ねっ。お願い、紗奈。わたし、あのことを思い出すたびに変になりそうなの。」 「そんなー。」 「それにね。こんな状態で発情期を迎えたら本当に我慢できなくなって、黙って遊馬くんを襲っちゃうかもしれないでしょ。」 「うー。」 「ね。紗奈が認めてくれたら内緒でそんなことはできないし、その方が紗奈も安心でしょ?」 「それはそうだけど……」 「だからお願い。」 「でも……」 「ね、この通りだから。」 「うー。しょうがないなぁ。」 「ほんと!」 静流さんの表情が一瞬にしてほころぶ。 「でも条件がありますからね。」 「なになに?」 「まず、わたしの前では先輩にくっつかないと。」 「うんうん。」 「次に、わたしに内緒で先輩を誘惑しないこと。」 「それでそれで。」 「それで、発情期以外では、そ、その。」 「なに?」 「えっと、その……だから、発情期以外では先輩とHなことをしないこと。」 「えー。」 「嫌ならやっぱりだめ!」 「うそうそ。大丈夫よ、ちゃんと約束は守るから。」 「ほんと?」 「ほんとほんと。今までだって嘘をついたことないでしょ。」 「最初の頃、さんざん抜け駆けしようとしてた。」 「あれはほら、事情が違うから。ね。今度は大丈夫よ。」 「絶対の絶対?」 「もう。疑い深いわね。」 「だって、お姉ちゃんの手。」 「えっ?はいはい、ちゃんと離すわ。紗奈の前ではくっつかない、でしょ。」 いつの間にか再びおれをつかんでいた静流さんの手が離れる。 「じゃ、なにか飲み物をいれるわね。紗奈もなにか飲む?」 静流さんが立ち上がる。 「……わたしはいい。着替えてくる。」 紗奈ちゃんは、おれと目をあわせないまま部屋を後にする。 取り残されたおれは、いまだに状況の変化についていけず頭の中を意味不明な言葉が駆け巡る。 (静流さんがペットでペットが静流さん???それを紗奈ちゃんもOKして、でもこの先なにがどうなってどういってどうするとどうなるんだ?????そもそもいまの状況自体がどうがどこになってなにがどうなったのか……・) 「ねえ。遊馬くん。」 静流さんが、いつのまにか後ろに立っている。 「はい。」 おれは振り向きながらこたえる。 「紗奈の部屋に行ってあげて。」 「部屋に、ですか?」 「あの子ね。昔からなにか嫌なことがあると部屋に閉じこもるのよ。ぬいぐるみを抱いてね。だからあなたが行ってあげて。」 「でも……」 「でもじゃないの。あなたは紗奈の恋人なんだから、こういう時になぐさめてあげなきゃだめでしょ。」 それは静流さんが……という言葉が出そうになるが、喉の途中で消えてしまう。 「だからって、わたしとは会わない、なんてことは言わないでね。捨てられた猫のうらみはこわいんだから。」 静流さんがまた微笑む。おれはその微笑みに吸い込まれそうになりながら、リビングを後にする。 |
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